この記事を書くのは悩みました。
楽しいだけの入れ墨と猫ブログで行こうか、感情むき出しもたまにはいいか?
昨日は臨時休業でした。
と言うのも、げんパパの先輩の通夜でございました。
51歳。
げんパパとさほど変わりません。
3年前にお見舞いに行った時と、別人と化していた彼は、癌の末期で、在宅医療を受けていたそうで、ロカビリーを愛するべくギターを持つ写真を見せてもらいました。
最近、げんパパのお友達が、年齢的か亡くなる方が時折あります。
40代後半。
でも、40代後半ですと、まだ親が生きている事が良くあります。
親より先に死ぬのが一番の親不孝。
良く言われる言葉です。
ですが、これは如何に。
確かに、年功序列にて、親に子の死別を目の当たりにさせるのは、耐えがたいものと思います。
そして仏法では、子は、地獄へ落ち、石を積み、一つ積んでは父のため…2つ積んでは母の為、、、すると、鬼がやってきて、荒らされてはまた、子供は石を積むのです。
しかし、それは親不孝なのか。。
病と戦い、苦悩を受け、生きると言う事を、私達凡人よりもしっかりと心の目で見て、最後の自分も受け入れている。
そこには、親への想い、生きる事への尊さ、私達には分からない深い深い生きる事への慈しみがあると共に、そこに、親不孝は存在しないと、私は思うのです。
確かに親御さんは、哀しみ絶望の中に苦む事でしょう。
私はまだ若く、生意気かもしれません。
が、しかし、何故!
子が親より亡くなるのが親不孝かと正せば、地獄に子供が(大人としても苦悩を受けた人間が)落ちるなんてと思うのです!
親が死ぬまでの間、我が子の先だった命を心に、苦しむの事を地獄と例えているのではないかと思います。
それを親が心に秘めなければと、刻んで、辛い想いをしてる事を、親不孝と例えてるのかと、私は、以前の知人の葬儀で泣き崩れる母親を見て、思いました。
つまり、地獄と言う例えは、子にでは無く、親が地獄へ落ちる様な想いをする、と言う例えにも思えると、私は思いました。
親が命尽きるまで、残された人生の中に、地獄と感じる時がある。
それは我が子の誕生日だったり、命日だったり。
それは動物も同じく。
慈しむ想いは同じですが、仏様が与えた『寿命』が違います。
一般的な犬猫、ペットと言われる動物は人の寿命より格段に短いのは、人に看取られ、路頭に迷わない為だと思います。
共に、生きたいと言う心と、辻褄の合わない現状。
すみません、公私混同してしまいましたが、命と言うものが消滅する時、私達はそれを真摯に受け止め、自分が今生きてる事のありがたさや、奇跡の連続が人生と言う道である事を心に秘めなければと思うのです。(押し付けてはいません)
変なニュースが流れる毎日で、真剣に病魔と戦ってる人、命を救おうと必死に頑張る人、小さな事でもコツコツと密かに行動してる人がいる。
どうか、変なニュースが流れる毎日が減る事を祈り、貴方でなくても良かったのに、、、と思う命が、救われる様、私は願いたいです。
明日は我が身。
こんな言葉がある様に、死は隣り合わせ、忘れがちな人間と言う幸せな生き物。
まだ経験少ないであろう、無知な若造の生意気に付き合わせてしまい、申し訳ありません。
じゃあ、この子達に問いただしてみると!
君達は何故!生まれてきた?!

ただ、私も生きると言う事を、心に。。。
心より、ご冥福を申し上げます。